広島市現代美術館で開かれている、高嶺格(たかみね・ただす)の「とおくてよくみえない」展を見に行った。印象に残った作品をいくつか書いておきたい。
2次元の部屋
一般の人から送ってもらった毛布や刺繍を枠に貼りつけ、もっともらしい解説文をつけて展示するという作品群。名もない人がつくったものを芸術作品として見せるという試み。古くは、マルセル・デュシャンが男性用小用器に、自分の妹に自分のサインを書かせ、「Fountain (泉)」というタイトルをつけて美術展に出品して物議を醸したが、アートとは何か、アーティストとは誰か、を問いかけるものだ。
ベイビー・インサドン
「在日韓国人である妻との結婚までの葛藤を写真とテキストで綴った」のだそうだ。ぼくが最初に驚いたのは、結婚前に6年間も付き合っていながら彼が在日の問題について全く学ぼうとしなかったことだ(もちろんその後に深く学ぶのであるが)。広島という土地は、在日コリアンも多く、原爆投下時にはおよそ3万人の在日朝鮮人が命を奪われたといわれる。平和活動に関わってきた関係上、原爆被爆の問題を学ぶ中で、在日の問題も学び、考えたからだ。また、妻が在日外国人教育および人権教育の運動に関わってきたので、この問題は日常的に耳にしてきた。
A Big Blow-job
「真っ暗な空間に廃材や不要となった家具とともに文字が照らし出される」という作品。文字は「共有感覚とは何か?」をテーマに書かれている。暗闇の中で、曲線に沿って並べられた文字に光が当てられていくので、一度に全部を読むことができない。そうした不自由な体験を強いることで、見る者に失われた感覚を取り戻させようとしているのだろうと思った。作品のタイトルはヤバい感じだが、学芸員の女性はそのことに全く触れなかったな、そういえば。
とおくてよくみえない
ボランティアとのワークショップから出来上がった作品とのこと。まず、老若男女のボランティアが一人づつ白い陶器で突起を作る (They look like dildos)。突起が地球につながったものであると捉え、世界に立ち向かうために彼らが突起に噛み付く。この動作を「影絵」に記録し、プロジェクターで映写する、というもの。彼らの動作は噛み付くというより、床に置かれた突起を四つん這いで咥えて、頭を上下しているので、それこそ、前の作品のタイトルにある動作に見えてしまうのだ。これに参加した人たち、恥ずかしくなかったのかな? 羞恥心を克服したんだろうな、きっと。それとも、ぼくの見方が間違ってるのかな?
6月25日には作家本人によるアーティスト・トークが行われるそうだ。