今日は、仕事の合間を縫って、HIPの例会で司会を担当しました。
ゲストスピーカーは、被爆者の国重昌弘さん。被爆当時は広島県立第二中学校2年生の14歳。HIPスタッフの荒谷さんと同級生でした。
8月6日の朝、二中2年生全6クラスは広島駅北側の東練兵場で、サツマイモ畑の草取り作業に動員されていました。整列して先生の指示を聞いているとき、米軍の爆撃機B29が落とした2~3個のキラキラしたものを見ていたと思ったら気を失ったそうです。原爆の熱線に焼かれ、爆風に吹き飛ばされたものと思われます。
上半身裸で顔と腕にひどい火傷を負った国重さんはすぐに動くことができず、午後2時頃になってやっと仲間4人と一緒に牛田、三滝方面を通って西広島駅まで歩いて避難したとのこと。たまたま重傷者を乗せたトラックを見つけ、こっそり乗り込んで、自宅のある廿日市で飛び降りたそうです。
午後6時頃自宅に帰り着き、両親の顔を見たとたん、安心して涙が溢れました。両親はすぐに昌弘さんの火傷の手当を始めました。手当といっても手荒なもので、お母さんが昌弘さんを押さえつけ、お父さんがピンセットで顔や腕の火傷した皮膚を全部はぎ取るというものでした。麻酔があるわけでもなく、痛くて泣き叫びました。それから毎日、1日5回、ベビーパウダーとひまし油を混ぜた薬を火傷の傷口に塗ってもらう治療を続け、40~50日後に回復したということでした。しかし、この手荒な治療のおかげで、顔に火傷の跡は残らず、きれいな肌をされています。なお、避難時に市内を通らず、黒い雨にも当たらなかったので、放射線被曝が少なかったと思われ、そのおかげで現在まで健康に暮らしているということです。
荒谷さんがおっしゃるには、国重さんは真面目で早く東練兵場に着き、衣服を脱いで準備を整えていたためにひどい火傷を負ったが、自分は時間ぎりぎりに着いて着衣のままだったので火傷が軽くて済んだのだそうです。
同じ場所、同じ時間に被爆しても、これだけ被害に違いがあることを思うと、被爆体験はいくら聞いても全てを知ったことにはならないのだと、あらためて気づかされます。