被爆からわずか8年後の原爆映画

9月26日・27日の両日、横川シネマで映画「ひろしま」の自主上映会が開催されました。ここ数日話題になった日本教職員組合が1953年に自主制作した映画です。原作は長田新編『原爆の子』、脚本は八木保太郎が担当し、関川秀雄監督がメガホンを取りました。所属する映画会社と争ってまでノーギャラで出演した月丘夢路を初め、岡田英次、山田五十鈴など当時最高の俳優が出演しています。「原爆の子・友の会」、総評、文化人会議、子供を守る会、広島市など多くの団体が制作に協力しました。当時、ボランティアでエキストラとして出演した広島市民の数は8万人に上ったそうです。ヒロシマ・ナガサキの悲劇を二度と繰り返してはならないという、数多くの人々の思いが結実した映画でした。

原爆をテーマにした映画としては、1952年に公開された新藤兼人監督の「原爆の子」に次ぐものです。1952年、サンフランシスコ平和条約が締結され、GHQによる占領が終わったばかりの時期に制作が開始されたものです。原爆が投下され、戦争が終わってからわずか8年という時期ですから、制作者、出演者共に原爆や戦争の記憶が生々しく残っていたことがよく分かります。原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子さんが白血病を発症する2年も前といえば、いかに早い時期に作られた映画かということがご想像いただけると思います。ちなみに、海外で初めて制作された原爆映画ともいえるアラン・レネ監督の「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」の公開が1959年ですから、その6年前になります。

あらすじをgoo映画から引用します。

広島A高校三年、北川の担任するクラスで原爆当時のラジオ物語を聞いていた大庭みち子は、突然恐怖に失心した。原爆の白血病によって前から身体の変調を来 していたのだ。クラスの三分の一を占める被爆者達にとって、忘れる事の出来ない息づまる様な思い出だった。それなのに今広島では、平和記念館の影は薄れ、 街々に軍艦マーチは高鳴っている。あの日みち子の姉の町子は警報が解除され疎開作業の最中に、米原先生始め級の女学生達と一緒にやられたのだ。みち子は爆 風で吹き飛ばされた。弟の明男も黒焦げになった。今は、ぐれてしまった遠藤幸夫の父秀雄は、妻よし子が梁の下敷で焼死ぬのをどうする事も出来なかった。陸軍 病院に収容された負傷者には手当の施しようもなく狂人は続出し、死体は黒山の如くそこここに転りさながら生き地獄だった。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23806/story.html

最も印象的だったのは、記憶の生々しさです。建物疎開作業で家を取り壊す様子、当時の服装、そして被爆後の惨状など、ディテールが忠実に再現されています。特撮やCGなどなかった時代に、原爆被害の恐ろしさを可能な限り忠実に再現しようとした関係者の努力に頭が下がります。

自主制作であったため、なかなか上映の機会がない映画ですが、できるだけ多くの人に見ていただきたいと思います。

コメントを残す