ぼくの活動経歴です。
1962年 | 福岡県大牟田市で生まれました。 |
1974年 | 熊本県に引っ越しました。 |
1981年 | 大学に入学し、広島市の住民になりました。そのころから平和、環境、国際協力などの様々な市民グループに関わり続けています。 |
1982年 | 小倉桂子さん(後にHIP代表)と出会い、 International Peace Picnic を一緒にやりました(これが後に「ぺあせろべ」に発展していくことになります)。 |
1984年 | 11月、ヒロシマ・ナガサキ平和基金主催のヒロシマ案内人講座で小倉さんがボランティアの通訳・ガイドグループの設立を呼びかけ、12月に平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)が発足しました。 |
1985年 | 大学院に進学。7月、HIPは『ヒロシマ事典』を自費出版。レーガン米大統領が核軍拡政策をとる中、被爆 40周年のため、ヒロシマに注目が集まり、数多くの外国人が広島を訪れ、HIPは通訳やガイドとして大わらわでした。 |
1986年 | 3月に結婚しました。 |
1989年 | 1月、フィリピンのマニラで開かれた「平和と開発に関するアジア太平洋人民会議」に参加しました。平和をテーマにした国際キャストによる子どもミュージカル「ピースチャイルド広島」の第1回公演準備に参加しました。歌詞の日本語への訳詞などを手がけました。 |
1990年 | ピースチャイルドの出演者を選考するオーディションをフィリピンで開催。フィリピン教育演劇協会に委託した選考会に同席しました。 会社に契約社員として入社しました。環境関連のコンサルタントで、市町村の廃棄物処理計画などを手伝う会社です。 |
1991年 | 5月、米国に旅行しました(17日間)。7月、息子が誕生。妻は育児休暇を取りました。経済上の理由から正社員になりました。
この頃は、環境問題に関心があり、「地球の友ひろしま」というグループで、熱帯雨林の保護などを考えていました。 |
1993年 | 毎年8月5日に開かれる反戦・反核広島集会の事務局に参加しました。この年、名称が「平和に生きる社会を創るヒロシマのつどい」に変更されました。 |
1995年 | 下火になっていたHIPの活動に火がつき、半年間の強行スケジュールで『ヒロシマ事典』改訂版を7月に発行しました。HIPのホームページも開設しました。10月に出版記念パーティーを開いた後は、burn out のためHIPは休眠状態に。 |
1996年 | 再び契約社員になりました。給料はそれまでの5分の3に。現在、月曜から水曜まで会社で働き、木曜と金曜は市民運動やボランティア活動をするという生活です。 |
1997年 | 「ヒロシマのつどい」の事務局を引き継ぎ、名称も「8・6ヒロシマ平和へのつどい」と改め、再出発しました。 |
1998年 | 被爆者の方が多く集まるピースネット交流会などに顔を出しているうち、被爆者が語り部を続けられる時間も残り少ないと感じるようになりました。若い世代が広島を語り継いでいかなければ、と思い、小倉さんと共にHIPの再結集を呼びかけました。幸い、多くの心暖かい、熱心なメンバーに恵まれ、みんなで何かできるんじゃないか、と期待しています。 |
1999年 | HIPの活動が軌道に乗り、毎月1回の定例会を第3土曜日の午後に開くのが定着しました。7月に小冊子『平和記念公園案内テキスト』を編集・発行。 市民コンピュータコミュニケーション研究会(JCAFE) の運営委員に再選されました。インターネット時代に対応した市民グループのコンピュータ利用を提案しています。 |
2000年 | コンピュータの2000年問題が心配されましたが、大きな問題が起きず、ほっとしました。 「ヒロシマのつどい」の事務局を辞めました。 6月、会社を退職・独立、インターネット・コンサルタント「ネットポット」を開業しました。 8月、市民コンピュータコミュニケーション研究会 (JCAFE)の理事に就任。JCAFEは現在特定非営利活動法人(NPO)申請しました。 |
2001年 | 1月、市民コンピュータコミュニケーション研究会 (JCAFE)が特定非営利活動法人に認証されました。 |