1月6日(土)、「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」というMixiコミュニティへの投稿を見て、BAR swallowtail で開催された原爆の語り部の会に行ってきました。毎月6日夜に開催されていて今回が13回目になるそうです。
この会のことは以前から知っていました。ぼくの主宰するひろしま草の根メーリングリストに何度も投稿があったし、中国新聞でも紹介されました。だから、いつか行ってみようと思っていたのです。
知らない人ばっかりかなぁ、と思って会場に入ってみたら、中国新聞のM記者(美人です)と平和文化センターのS理事長の顔。ホッと安心。お話をさ れる被爆者の細川浩史さんとも始まる前に挨拶ができました。ぼくは細川さんと初対面だったのですが、平和資料館のピースボランティアをしている知人はよく 知っているそうだし、後で聞くと妻も職場に呼んだことがあるそうで、つながりを感じました。
原爆の落とされた1945年当時、細川さんは17歳、広島県立広島工業学校(現在の広島県立広島工業高等学校)の生徒でした。学徒動員で広島逓信局(後の電電公社、現在のNTT)に派遣されていました。建物は現在の白島町電停西側あたりにありました。
8月6日8時15分、細川さんは逓信局ビルの4階にいました。左側の窓に目も眩むような閃光が光りました。次の瞬間爆風に吹き飛ばされ奥の壁に叩きつけられました。分厚い窓ガラスは数千の破片となり室内の人々の体に突き刺さりました。
細川さんは体中血だらけでしたが、自力で歩くことができ、同僚二人と三人で隣の逓信病院、次いで白島九軒町の河原、そして、牛田不動院近くの友人 宅へと避難しました。そこで一夜を過ごした後、宮島口の自宅へ向かうため宮島線の線路づたいに歩いていったところ、草津から電車に乗ることができたそうで す。
自宅に戻った細川さんを迎えたのは、最愛の妹が死んだという知らせでした。この妹さんのお話は、NHKの「夏服の少女たち」という番組で紹介されています(1988年8月放送)。
長くなったので、今日はこれまでにします。またいつか機会があれば続きを書きます。
・夏服の少女たち
http://www.nhk-ep.com/view/11311.html
・ヨージローさんの日記
http://biz.2bee.jp/d.php?acount=swallowtail